書道家 英語 作品 有名 九州
MODE FASHION GROUP × 山口芳水 × BALANCE( 山口賢人 山口芳水 西英行 松本光 )
写真集 64ページ 一部文章 抜粋
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【 物語編 山口芳水 】文章 監修 岡本崇
両親共に書道講師の環境に生まれた。
物心ついた時にはもう筆を握っていた。
父は無口で厳しく、母は話すのが好きで褒め上手だった。
小学生の時は周りが遊んでいる中、いつも書道をしていたのを覚えている。
学校から帰っても、両親は毎日書道講座の指導に行くため夜遅くに帰ってくる。
僕は俗にいう「鍵っ子」だった。
薄暗い部屋に当たり前のようにお手本と練習紙が置いてあり 毎日練習するのが当たり前だった。
逃げ出したくなって、書いた文字が涙で滲んだこともあった。
勉強も運動もできなかったが、ただ書道だけはいつも1番だった。
元々何もできない子だった。でもたった1つ、書道のおかげで「僕はできる」という自信が持てたのが唯一の救いであり強みだった。
小学生の文集には「書道の先生になりました」と書いてある。
両親のことを尊敬し 僕もそうなりたいと思っていたからだ。
歴史とか文化にも触れるようになった高校生の時には、「書かされていた」から「もっと学びたい。もっと技術を磨きたい」へと書道の向き合い方が変わっていった。
楽しくて嬉しくて、いつかこの気持ちをたくさんの方々に伝えたいと思うようになった。
高校1年生、16歳の時には助手として教室の指導の舞台に上がらせてもらえた。
子供に教える喜びを得て、これが天職だと感じた。
導いてくれた両親に本気で感謝している。
30歳までは知識・教養・技術・指導を学び、磨いた。
時は流れ、30歳を迎えた時に
書道教室は地につき
佐賀県書道展にて大賞を受賞をした機に
父から「 好きなようにやっていい」と告げられる。
だが、これまでの枠にはまり込んだ頭では、簡単には好きなようにできなかった。
家にあった赤の水彩絵の具を墨に混ぜてみた。その時に
『心』『もがいて』
という作品が生まれた。
とても怖かった。これまで守ってきたものを全て壊しそうで。これまではやってはいけないことだったから。
それでも新しい自分と出会いたかった。
『心』写真1
『もがいて』写真2
という作品が生まれた。
とても怖かった。これまで守ってきたものを全て壊しそうで。これまではやってはいけないことだったから。
それでも新しい自分と出会いたかった。
それらの作品を
恐る恐る父に見せるとなかなか褒めない父が「 よかやんか 」と一言。
僕は初めて認められた気がして涙が止まらなかった。
これが第一歩となり、絵と色の世界に興味が湧いてくる。
その時期に画家の牛丸和人先生と出会う。
先生の絵(100号サイズ)に僕の書を揮毫するというご依頼だった。
先生から「自由に書いてくれ」という寛大な言葉をいただき、緊張に包まれつつ誠心誠意揮毫させていただいた。
その時、初めて画家との絵と書のコラボ作品が生まれた。
初めて行ったアトリエで、「次は合宿させてください」とお願いした。
先生は快くお受けし 後日合宿を実現させていただいた。
先生のキャンバスや絵の具を自由に使わせていただき、自由な発想から、「銃」という字が銃の絵のように見える作品
『銃』
が生まれる。
それをきっかけに心が解放され、紙、筆、墨、文字を使用する従来の書道のルールすらも破り、作品の創作範囲に広がりを見せていく。
壱岐島で創作した「青いseries」。
上海で個展をした「赤いseries」。
和多屋別荘で個展をした「愛( 緑 )series」。
国立新美術館 展示した 「G series(金)」。
時には「書いたり」、時には「描いたり」、時には書きも描きもせず作品を「作ったり」と、すでに書道家だけには収まりきれず、今は何でも作る(創る)人=
”maker”
に変わっている。
そして、これからは常識に疑いを持ち、植えられた概念を崩しながら未来を創造し、今を掴み取る作品を生み出していけるよう、作品の創作に没頭していければと思っている。
山口芳水
※ 写真 小学一年生 6歳の時の 山口芳水